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久しぶりに本屋に寄ったら大江健三郎の文庫本が積まれていた。ようやく増刷ができたのだろう。死後すぐに本屋の棚を覗いても見つからず、図書館で探しても棚には置いてなかった。そういう意味ではすぐに手に入る、常備されている古典というポジションではなかったか。まあ、そうなのだろうな。かくいう自分も死んだと聞いて、そういえばあまり読んでなかったなあと思い、探してみたのだから。結局「個人的な体験」と「芽むしり仔撃ち」を購入した次第。


それで思ったのだが、若い頃に大江健三郎を読んでいない自分は、いったい何を読んでいたのだろう?大江健三郎すら(太字)読んでいなかった、と言っても良いか。何冊かは読んだような気はするのだが・・・そんな程度だ。俺たちの世代のスターか?といえば微妙に一世代上のような気がしている。プレスリーとビートルズ、裕次郎と健さん。大江健三郎と高橋和巳。そんなずれだろうか。今の若い人にとってはどうでもいいような微差だろうけど。


中学生のころは、見栄と教育的配慮で飾られていた河出書房の世界文学全集(全50巻)を端から読んでいったのは覚えている。全部読んでやろうと思ったのだが読み切れなかったな。でもヘルマン・ヘッセ「車輪の下」に感動したりw、「モンテクリスト伯」や「武器よさらば」もおもしろかった。ドストエフスキー「罪と罰」には考えさせられた。ヘンリー・ミラー「南回帰線」は衝撃だった。とにかく、世界文学全集、あれは偉大な文化装置だったな。外国の小説があんなに沢山居間にあった国はほかにないんじゃないだろうか。日本の居間に再度世界文学全集を装備したら人民の劣化もある程度は改善されるかもしれん。


それで、大江健三郎「個人的な体験」新潮文庫

若くして覚悟もないままに思いがけず子を為してしまい、しかも産まれて来た子が重度の障がいを持っていることに直面してしまい、そのことを無かったことにしてしまいたい。つまり我が子の死を願う男。作者の個人的な体験をベースにした作品。時代を感じさせるところもあるが、普遍的なテーマなので全く古びていない。障がい者を取り巻く環境は半世紀以上経った今でも変わっていない点は多々あるのだろう。若い親がそれに直面することが多いとすると、逆に社会の包摂性は後退している部分もあるように思う。


氷見子という愛人の存在は救いだ。実際にそのような事があったとは思わないが、作者は作中に救いを求めたのだろうか。賛否があった終わり方はあれで良いと思った。あれがないと若かりし大江健三郎は救われなかったのだろう。切実な小説だ。






# by votanoria | 2023-05-16 18:35 | | Trackback

講談社現代新書「ネット右翼になった父」鈴木大介


Chat GPTの事がいろいろ言われているみたいだ。おっちょこちょいの習いで何度か試してみたのだが、世評ではとても自然な言葉でちゃんとした回答をくれることに驚いているみたいだけど、それってそんなに驚くこと?って思ったりする。昔から、もっともらしく中身のないことをいつまでもしやべり続ける奴がいるのは知っているので、要はその話に中身はあるのか?という見立てだ。もっともらしい事に中身のないことが解るのは、そいつの身振りとか、態度を見ているからだろう。だから、日頃からそいつの生活態度を良く知っているなら、即座に中身がないことの判断がつくというもの。Chat GPTもしばらく使っていると解ってくるのだろう。誰にも得意分野というのはあるから。


それで「ネット右翼になった父」だけど、この著者はもっとも身近なはずの父親をちゃんと見ていなかったおかげで、父親の外側の飾りの部分を中身だと思ってしまい、とんでもない父親像をでっちあげてネットにばら撒いてしまい、今になって言い訳みたいな本を出すことになってしまった。という事だろう。内容は別途ググってもらうとして、著者が言い訳をしなければならなくなったのは、母親や孫が言う、「お父さんは、そんな人じゃなかった」とか「お爺ちゃんは、あの時ああ言ったけど、あれは流行りの言葉を知ってるぞと、アピールしたかったからだけだよ」等の、著者の父親の事を、祖父の事を、愛情をもって接している者達の指摘があったから。


そういう意味で、これってChat GPTとどう付き合うか?という問題と一緒で、自分の生活の中で感じる嘘くささとか、本当に中身はあるのか?という直感を信じる、というか養うことだろう。うさんくさい奴は大体解るのだから、そういう目で付き合うと良いんじゃないかと思う。


で、本の感想に戻るけど、この人は自分の持っている価値観は、ネトウヨ的価値観とどのように違うのか?その価値観の受容の仕方はネトウヨだと思った父親とどう違うのか?を考えるのだろう。これからは、母親や姪っ子が、ある意味父親も持っていたような、普通の人の普通の生活実感を深堀りしてみたら良いんじゃないかなあと、偉そうに言ってみる。


でも、自分の父親とちゃんとした関係を持てなかったのは気の毒なことだ。そういう後悔の中で、一連の出来事を通じて父の本当の姿を知り、そこで真の和解が訪れる!という感動的なドラマとして読むこともできるのでお薦めです。ちなみに倉本聰のドラマじゃないか?と思ったら少し泣けました。是非そういう見立てで読んでみてください。















# by votanoria | 2023-04-12 18:51 | | Trackback

父―息子のこじれた関係を描いた本を2冊続けて読んだ。

島尾伸三「小高へ 父、島尾敏雄への旅」と鈴木大介「ネット右翼になった父」


先ずは島尾伸三「小高へ 父、島尾敏雄への旅」

これは図書館で見つけた本。著者は戦後に書かれた小説の中でも、もっとも忘れがたい小説の一つである「死の棘」を書いた島尾敏雄の長男。「死の棘」の中に妹のマヤとともに「カテイノジジョウ」に怯える伸一として登場している。凄絶な家庭環境の中で育った著者はある意味今で言うサバイバーということだ。妹のマヤをその地獄から救えなかった事を深く悔いている。そして極度にネガティブな自己評価。それが最初から最後まで貫いている。それは、これを書きたくて書いているのではなく、頼まれたから書いているが、書く理由はなにがしかの原稿料を当てにするしかない生活無能力者だから、みたいなことも書かれている。


全体は、書き下ろし数編を含む断続的な追想録で、父の故郷である小高の町と本家にまつわる思い出、妹マヤのこと、「死の棘」の舞台となった当時暮らしていた小岩の思い出、父との沖縄への旅の思い出、父の死亡後の母ミホの理不尽な振舞いの思い出など。印象的なのは母ミホに対する、諦めが混じったような嫌悪描写。カテイノジジョウを目撃した息子からは、敏雄自身が「島の果て」に描いた聖女のようでは決してなく、強権をもって家族を支配する暴君のような母親だったようだ。


「妹やマホが居なければ、おかあさんは私に「殺しておくれ」・・・・と、言ったに決まっています。ええ、私はきっと、その命令を忠実に実行したはずです。そう言われなくても、ぶち殺しそうでした。」


伸三は子供の頃両親から精神病に入れようと計画されていたという。若干そういう気質があるのだろうか。本人も中学の頃から字が読めない症状がある、と言い「中学のころからなんらかの神経症に侵されてきているはず」で、「先天的な要素をおかあさんに。後天的な要素をおとうさんとおかあさんの暮らしぶりから」と言っている。それが長期にわたる両親のカテイノジジョウに曝された結果だとしたら、気の毒なことだ。


妹の死(詳細は書かれていないし、解らないが、伸三は明らかに母親の傍に置いておいたのが原因だと思っている)における後悔が哀しい。

「マヤはどこに行っても両親の後を追いかけません。だから私が、おしっこやうんちの世話をしなければならないのです。電車に乗っていても、「おにいちゃん、うんち」って、言うんだもん。」「小岩に来てからは、もめ事の原因はもっと増えているみたいで、私はとっくに両親を嫌いになっていました。マヤはもっと二人のおとなを恐れていました。」「妹、マヤの死は、十年経っても、私を悲しませるのに充分です。どうして彼女を、狂った母の家から救いだせなかったのか・・・・」


ところで、「三十二、三の若い妻が、私のおかあさんが、自分の過去の恋愛に夢中にすがらなければならなかった、彼女の孤独を思うと、そんな気持ちにさせる夫は、良くありませんと、怒ってしまいます。」という文章の次が、「飛行機の中で、赤ちゃんを抱えて四苦八苦している奥さんを尻目に、新聞や雑誌を読みながら、他人のような顔をしている夫のようで、プンプンです。」という文体に、最初はなんだか戸惑ってしまい、あれ?何か知的な問題が?などと思ったのだが、破調ではあるけど、全体としては一つのまとまりをもった本になっているのは、編集者の介入があるのかもしれないが、もしかしたら確信犯的にきちんとした文章を書くことを忌避したのではないだろうか?と思った。


最初の方に埴谷雄高などとのエピソードの話の後に、自分には文才がないと宣言し、それまでの文体を変える部分があるのだが、両親ともに優れた文学者である、カテイノジジジョウに不幸にして付き合わされた被害者としては、文才がないのではなく、絶対に、絶対に二人のような、ちゃんとした文章など書いてやるものか!と決めてかかったのではないかと思うのだが、どうだろう。でもなあ、そんな両親でも、追慕の気持ちがありありと見てとれるのがなんとも言えんです。


もう一つ「ネット右翼になった父」のことも書こうと思ったが、眠くなったので今日はおしまい。またにする。







# by votanoria | 2023-04-04 18:31 | | Trackback

漢和辞典を買った。漢和というより漢語辞典か。最近、詩(うた)を読んでみたくなり、詩集や歌集を何冊か手元に置いて、隙間時間に煎餅を食う気分で読んでみている。すると詩(うた)には読み方が解らない漢字が結構な頻度で出てくるのだ。これ、なんて読むんだ?ということが多いので、人気の辞典を調べて、なかなか評判の良いものを買ってみた。


本来なら毎日が日曜日のはずの身の上なのだけど、関わっているボランティア団体のあれこれが結構な時間を奪っていく。特に年度末の今時分はそのあれこれが格段に増える。そんなあれこれで埋め尽くされた日に、ほんの少し時間ができて、そこらへんに置いてある本を読む。そういう時間が好きだ。


図書館で借りた蓮實重彦の対談集と、古井由吉と大江健三郎の対談集をぱらぱら読む。こういう方々の話を聞くにつけ、自分が如何に物を知らない馬鹿者なのかと、つくづく嫌になる。覚えた言葉。テマテック。表層批評。


気になった言葉。「日本語というのは妙に自己増殖していくところがあるんで、一言書いて収めをつけないと往生できないという傾向がありますね。」「日本人は漢字に仮名を振っているつもりだけど、実は仮名に漢字を振って読んでるんだ、と言ったフランスの哲学者がいましたね。あれは半分くらい当たっている気がします。」


最近義妹夫婦が遊びに来て、家を飾る絵を選んで5点ほど持ち帰ってくれた。なにはともあれ、多くの絵の中から自分の住む家に飾るに値すると思われる絵を選んでくれたのが嬉しい。


最近絵を描くにあたって、少しは頭を使おうと思い、方法論というほどではないが、いくつかテーマ的なことを考えている。一つは絵の要素エレメントの配置のことで、絵=画面全体の<張り>をいかに作るか、みたいなことだ。つまり、何も考えずに手を動かしているうちに多くの(大概の場合多くの)要素エレメンツが平均的に画面を埋め尽くし、中心もなければ核もないような、<張り>というものが全くない全体が現れる時がある。そうした画面をどうしたら<張り>を持たせることができるのか、などといったことを考えてみたりしている。


<張り>とは一言で言うと緊張感みたいなものか。だらっとしていない絵というか。つい、だらっとしてしまうのは性格の為せるところで、気を付けないと万事がだらっとしてしまう。生活の細々にも<張り>を持たせるようなことにも気をつけないといけないのだろう。


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某社の会議室に飾られている拙作


桜が満開を迎えている。田舎暮らしの良いところは、公園のように管理されている場所に咲く桜以外に、近くの枯れ山の中腹に、満開の野生の桜が1本だけ屹立している様を眺めることができるといったこともある。ああ、あの桜は今年も元気に咲いたか、としみじみするのも良いではないか。来年も咲いてくれるのか、いやいや咲くのは咲くが、こちらの命が尽きていることもあるかもしれない、などと気の早い老いの突当りを巫山戯て想ったりするのも、年々リアリティが増してくるというものだ。そんな今日このごろであります。





# by votanoria | 2023-03-25 10:06 | Trackback

久しぶりに都会に出て、展覧会と映画を観た。こういう文化活動?は、やはり都会に限る。とは言え、目的を果たしたら脇目もふらずに田舎に帰ってくるのはどういうことだろう。見たり読んだりしたものをあまり溜めずにこまめにメモっておく。


東京都美術館「エゴン・シーレ展」

文化活動:エゴン・シーレ展、FACE展、別れる決心_e0348762_13375125.jpg

俳句の世界では人事句という、身辺の事を詠う句は邪道であり、眼前写生、自然詠を良し、とする流派が主流のようなのだが、絵画にもそういう見方はあるように思うのだ。自分のこと、自分の置かれた状態を、ある種人の情に訴えるような画風で描く、というものがあり、自画像を多く描く画家にそうした傾向があるように思う。エゴン・シーレはそういう画風だと思っていた。そして実はそういうの苦手w


夭折の天才画家みたいな売り文句も好きではないのだが、今回彼は意外や風景画も結構描いていたというのが解った。港町の家並みを丁寧に描いている一連の作品を見て、それがなかなか良くて、心の中で「ごめんよ、シーレ」と謝っておいた。キャンバスの広さと、それを埋める筆の運びを見たかったので、それを見られたのは良かった。もっと長生きしてたら、どんな絵を描いていたのだろう。


SOMPO美術館「FACE展」

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「年齢・所属を問わず、真に力がある作品」という触れ込みの公募展だ。数年ぶりに観た。コロナの間もやっていたのだろうか。どんな作品が選ばれるのか楽しみにしている展覧会。今年のグランプリはなんというか、若い人の心性を表象しているのだろうか。漂白されて面立ちも定かではない少年達。なんか心配になるw。気のせいかそういうの多かったような気がする。単に審査員の好みかもしれないけ

ど。


映画「別れる決心」

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楽しみにしていた映画だ。小さな70席くらいの劇場だったが、満席だった。

いろいろなサイトにストーリー紹介やレビューが公開されているので内容はそちらを参考にしていただくとして、今回はなんだかもやもやした感じだった。サスペンスの部分で一部理解できない点もあったが、この映画はそこじゃなくて、法の番人である刑事と、殺人事件の被疑者との道ならぬ恋の、それが発熱し、熟していく過程で見せる、視線や表情の繊細な交わりを楽しむ映画だと思った。というか、そういう映画だったと思うことにした。市場で偶然のようにそれぞれのパートナーを伴った出会いのシーンなどで見せる、互いの視線の交差などが象徴的かな。もやもやしたのは、観終わっての印象として、これはパク・チャヌク監督が目指したものが完全には達成されなかった映画なんじゃないか?と思ったのだ。何がどうとは言えないが、最後の衝撃的なシーンに到達するには、そこまでの圧力が不足していたような。なんだろ、何が不足していたのだろう。


# by votanoria | 2023-03-01 13:38 | 映画 | Trackback