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人は誰でも老いる。そして、かなりの割合で惚ける。自分では惚けていないつもりでも、身体の自由が利かなくなり、耳も遠く、目もよく見えなくなり、他人とのコミュニケーションが不自由になった老人の起居振る舞いを目前に見ると、身近な家族ですら惚けたと思うのだ。この本を読んでそう思う事にした。


我々の世代にとっては説明を要しない、あの吉本隆明の、最晩年の生き様をもっとも身近で見ていた娘たちがあけすけに語る。元々は吉本隆明全集の付録の小冊子に連載していた長女ハルノ宵子の文章に、次女吉本ばななとの対談を加えて一冊にまとめたもの。



ハルノ宵子「隆明だもの」晶文社_e0348762_11551426.jpg


自分も若い頃、多少なりとも生き方の指針として読ませてもらった吉本隆明であるが、粗略な頭がついていけなかった所為で、熱心なフォロワーにはならなかった。一時はそんな風に思ったこともあるのだが、友人の真のフォロワーを見ていると、おこがましくてそんなことは言えなくなった。そんな程度の付き合いではあるが、やはり吉本隆明がどのように晩年を過ごし、どのように最期を迎えたのかは知りたかった。読んでみて思ったのは、「家族ってなんてリアルなのだ!」という事。


尿をダダ洩れする父の介護、両親ともの介護費用のこと、家族崩壊の危機、アル中になった母、妄想を口走る父、とにかく包み隠さずあけすけに語り尽くす。ちょっと語り過ぎではないか?と思うところもあるが、圧倒的にリアル。容赦がない。そういうところ、父親に似ているのかも。親父さんも若い頃、いろいろな論敵に対して容赦なかった。


「2000年代半ば頃になると、いよいよ父の眼は悪くなってきた。テーブルを挟んで目の前にいる人の、男女の区別もつかない。「常に赤黒い夕闇の中にいるようだ」とも言っていた。さらに脚もかなり悪くなっていた。以前は家の1300m程を休み休みでも歩けたのに、家の中を這って歩くだけになった。耳だって歳相応に悪くなる。さながら自分の肉体に閉じ込められているようだ。老いとはかくも残酷なものかと思い知らされた。」


容赦はないのだが、その前に十分な配慮と手当があり、父親に対する愛情と敬意があってのことであるのが窺えることは補足しておこう。しかし、あの吉本隆明を父親に持つのは、それなりに苦労も葛藤もあっただろうが、それ以上に、吉本隆明を夫にしてしまった妻の方が大変だったようだ。二人が夫婦になる経緯(親しい友人というか、先輩にあたる人の妻であった女性を奪ってしまったこと)は割と知られていたことではあるが、吉本の妻になってからの事はあまり表に出ていなかったのではないだろうか。


そもそも文学を志していて、詩人、思想家の吉本隆明と対等に話ができる女性であったのだろうから、ぶつかる時は相当深刻な緊張関係に陥ったようだ。娘たちの心も穏やかでいられるはずもないが、敵は知の巨人って奴だから理屈じゃないところに自立の思想的拠点を設けるしかなかったのだろう。しかし、妻はそうもいかなかったのだろうか。


二人の娘の見るところ、吉本隆明は終生言うことと、やる事の違いは全くなかったそうだ。それはなかなかできることじゃない。しかし家庭の中では、特に夫婦関係(対幻想!)においては裏目に出ることもあったようだ。


「すべてが手遅れなんだよ!お父ちゃんが放っといた間に、永遠に対の相手を失っちゃったんだよ」


なんだか泣けてくる。


「父は歴史に残るような仕事をこなし、その上でさらに、食事当番など、家事も(少なくとも母よりは)担っていた。感謝しかない。しかし母とは向き合わなかった。向き合った時は、ぶつかり合う時だった。」


普段の生活の中では、学校に通う娘たちの弁当作りをはじめ、家事全般を実にしっかりとやっていた。それを聞くとほっとする。フォロワー諸氏もさぞや見習っていることだろう。思想の原点である、<生活者>の普通の暮らしを、普通に生き切ったのだろう。妻と向き合う以外は。


しかしまあ、そんなことはフォロワーやファンが語るべきことだな。彼らがどう思うのかは判らないが、本書は老境を迎えた世代必読の、惚けたと判断された、もしくは実際に惚けてしまった老人が、家族からどのように扱われるのか?そろそろ覚悟召されよ、という吉本隆明最後のメッセージとして読んだ。「さながら自分の肉体に閉じ込められているよう」そんな日が来るのもそんなに遠くはないってことだな。




# by votanoria | 2024-01-28 12:06 | | Trackback

一昨年に読んだ「源氏物語」(谷崎潤一郎版)以来、平安時代と親しくなり、「紫式部日記」をトイレに置いて、座るたびに少しずつ読むという、考えてみると随分と失礼な読み方だが、とてつもなく豪華で華麗な世界に浸るうちに用が済むという一石二鳥?の平安時代ツアーを継続中。


ところで、NHK大河ドラマの「光る君へ」はどうなんだろう。おかげでちょっとした「源氏物語」ものが流行しているようだが、少し前に「芸術新潮」も源氏物語特集をやっていて、物語絵巻でも詳しく見せてくれるのか?と思ったら、長々と「源氏物語」のフェミニズム的読み解き論文で、思わず鼻白んでしまったではないか。(鼻白む、という感覚久しぶりに味わった)。古典の再解釈というのはありだろうが、さすがに平安時代の男女の関係をフェミニズム的に解釈するのは明らかに誤読だろう。芸術新潮どういうつもりなんだろう。


源氏物語を読んでから、高樹のぶ子さんの「小説伊勢物語」に手を出して、源氏物語とは一味違う平安貴族の恋の風味を味わったりしていたところ、最近川上弘美さんが伊勢物語を現代語訳しているのを見つけ、それを寝落ち前に布団の中で読みつつ、同じく川上さんが伊勢物語をベースにした小説「三度目の恋」に辿りついた、という流れ。ここまでどうでも良い話で申し訳ない。



川上弘美「三度目の恋」中公文庫_e0348762_10412524.jpg



不思議な小説だった。幼い時から憧れていた文句のつけようのない完璧な伴侶に恵まれた女性が、現代の人格を保ちながら江戸時代の貧しい農家の子供の人格の中?裏側?に入り込み、複合的な人格として成長し、借金のカタに売られたあげく、遂には吉原の花魁となる。そして多くの男を相手にするうちに、馴染みの男と恋に落ち、駆け落ちをするに至るのだが、すぐに追手に捕えられ(ここが伊勢物語の有名なエピソードがベース)遊郭の掟である拷問のような責めの中で命を落とす。そして、江戸時代に殺されて次に転生(転生ではなく乗り移り?)したのはなんと平安時代。まさに業平の時代。平安貴族の姫に仕える女房として現代・江戸・平安の三重の人格を持ちながら、伊勢物語を基にした姫の恋物語に深く関与していく。


しかし一方の現代では普通に日常が進行していて、子供も生まれる中で少しずつ夫との間に隙間風が吹き始める。説明が難しいのだが、つまりというか要するに、江戸時代のエピソードは毎晩見る夢の中での体験という設定なのだ。このギミックは最初受け入れるのに苦労したが、読み進むうちになんだが自然とそういうものとして読めてしまうのだ。さすが川上弘美さん。


元理想的伴侶であった男は、実は在原業平的なモテ男で、多くの女性と関係を持つのだが、それはある意味おおらかな天然ぶりで、あまり隠しもせず粛々と他の女性と交際を続ける。それを横目にしながら妻は妻で次第に自律的に動き始める。そこに彼女が小学生の頃、逃げ場所としていた用務員室で働いていた男性が絡んでくる。この男がこの後ずうっと彼女のメンター的な重要な存在となり、夢の中でも同じように現代の記憶を持った複合的な人格を持ち、いつの世でも優しく寄り添いつづける。なんとも不思議な話しである。


オリジナルの伊勢物語は平安時代の男目線の物語(実際は短歌を中心にした断片的なエピソード集しか残っていないのだが)と言って良いと思うがこの小説は、現代の女性目線で在原業平的な男性との関係を描いている。平安時代の物語の中から、現代の読者の関心を逸らさず共感できる普遍的な価値観(恋愛観と言っても良いだろう)を取り出して見せる。だから、女性が見る夢の中の話しというギミックが必要だったのだろう。かなりの力業だと思う。


高樹さんの時代小説として新たに創作した、ある意味読みやすい小説とは全く違うので、最初は相当戸惑ったのだが、川上さんの狙いは、そんな事ではなく、伊勢物語の核心として、<恋(心)>を取り出し、平安・江戸・現代と変わらず、女性(人)は何故にどのように<恋>に囚われるのか?を描き切ることだったのではないかと思ったのだ。それは一途でありながら同時に、現世的な計算や打算も含めて、<生きてゆくこと>に普遍的に織り込まれていることであり、つまりは、<恋>とは<生きてゆくこと>であり、逆もまた真なり、ということかもしれない。


そんな風に、今や、恋?それってなんでしたっけ?という爺の感想でした。

最後まで読み通した自分を褒めてやりたい。








# by votanoria | 2024-01-21 10:51 | | Trackback

これも勧められて観たもの。今年はもう少し自発的に映画館に行こうと思っているが、どうなることやら。


映画「PERFECT DAYS」ヴィム・ヴェンダース監督_e0348762_17254070.jpg


この監督の「ベルリン天使の詩」はだいぶ昔に観て、ラストシーン(だったかな)がとても印象に残っている。確か「パリ、テキサス」も観たように思うが、それは何も覚えていない。正直言って、新作が公開されたからといって、「さあ観に行こう!」とは思わなかった。何か肌合いが合わないところがあるのだろうか。


PERFECT DAYS

ドイツ人の監督が、日本を舞台に、日本人の俳優を使って、すでに老境に入った男の淡々とした日常を描く。そこにいくつかの人生の機微がうかがわれるのだが、彼の暮らしは何も変わらず、明日も今日と同じように目覚め、いつものように朝の支度をして、いつものように缶コーヒーを飲んでから仕事に向かう。


ドイツ人の監督が、なんで日本?なんで日本の役者?なんで日本語?などと(?)が観る前にいっぱいあったのっだが、観始めるとそういう(?)はどこかに行ってしまい、少し昭和の匂いがする世界観に心地よく浸ってしまった。ちょっと紋切り型の昭和の匂いではあるけど、まあそれが狙いなのだろう。


多分、多くの人が小津安二郎の映画を思い出すのだろう。そして、前にこんな映画観たような気がするという既視感をどうしても感じる。日本の監督がやると「いかがなものか?」となるのだろうが、ヴェンダース監督がやるから許されるということはあるのだろうか?でもまあ、結局こういう世界観嫌いじゃないんだな。


仕事の合間に公園でくつろぐシーンが何回か出てくる。木漏れ日が彩る陰影を丁寧に描く。また、夜の河原で出会ったばかりの男と影踏みをするシーン。影と影が重なると、より暗い影となるのかと目を凝らす。そして男の過去をうかがわせる親族との難しい関係性。ひそかに想っているスナックのママ(石川さゆり!)の見てはいけない秘密。そんな人生の機微が男の暮らしに陰影を与える。


つまりさ、陰影があっての人生なのだよ。そんな日々があるから人生は愛おしいのさ。だからそれが「PERFECT DAYS」ってことよ。そんな雑なまとめにしておくか。唯一、最後のシーンの役所広司の泣き笑い顔は、あの男はそんな顔しないんじゃないか?と思った。そこだけが肌合いが合わない演出を感じた。多分言い過ぎだと思うけど。








# by votanoria | 2024-01-11 17:26 | Trackback

こんな辺境化したブログを読んでくれている奇特な人はいないと思っているのだが、久しぶりに会った友人に最近の投稿は不真面目だ。もっと真面目に書きなさいと怒られた。同時にこの映画を観て感想を書けと言われたので本稿を書いている次第。


映画「ほかげ」塚本晋也監督

前作の「野火」で戦争のリアルを描いた監督が今回は<戦後>のリアルを描いた。

一般に<戦後>と一言で済ませ、おりにつけ戦後X年とか言って、まるであまたある記念日の一つのように言って済ませているうちに、「新しい戦前が始まった」とも言われ始めているが、我々の中で本当に前の<戦争>は終わっているのか?とこの映画は問い詰める。我々とは広義で言えば国だ。狭義で言えば戦争によって身体的に、または精神的に傷を負った全ての人々だ。更にはその彼等の再起によって安穏な暮らしを得た全ての日本人にとってだ。


映画の前半、カメラは極限まで切り詰められた息苦しい空間から一歩も出ずに進む。そこはかろうじて空襲から焼け残ったあばら家で、申し訳程度の居酒屋風カウンターとそこに続く小上がりがあるだけの空間が舞台。いわゆる「ちょんの間」だ。そこで、それぞれが戦争を通じて心に深く傷を負った、春をひさぐ女と、紛れ込んだ戦災孤児と、精神を病んだ復員兵がひょんなことから疑似的に家庭の再生を試みる。しかし、その試みは当然のように上手くはいかない。これが前半。


この前半が実に味わい深い。極限まで汚しをかけた美術セット、煮しめたようなくたくたに汚れた衣装。常に汗と垢にまみれている肌のてかり。わずかな外光とランプの薄明りの中で蠢く人の営み。その灯りは映画のタイトルのごとく、そこから一歩も出ていけないそれぞれの心を照らすほんの僅かな希望を現わしているのだろうか。


この閉塞感は今のGAZAに暮らす人々の暮らしを彷彿とさせると言ったら言い過ぎか?ウクライナの前線に近い町で閉じ込められたようにひっそりと暮らす人々の暮らしに近いかもなどと考える。そういう意味では<戦時>も<戦後>も等価なのかもしれない。現在NHKの朝ドラで主役を演じている趣理だが、たまたまその朝ドラが終戦間近の息苦しい時期を迎えている時なので、役柄は全く違うが妙なシンクロ感があった。友人の話によると、今年は戦争を主題とした映画がかなり作られ公開されているとの事だ。この国にも戦争の気配が濃密に漂い出している。<戦争>が露出してきている。そういう時代なのだと思う。


後半は一転して、解体した疑似家族から弾かれた戦災孤児が、たまたま手に入れていた拳銃をネタに謎の男に金儲けを持ち掛けられ、その拳銃を使ったあることを成し遂げるまで一緒に旅をする。前半の狭く暗い空間から抜けの良い屋外という対比が心地よい。しかし漸くそのあることを成し遂げても、それはこの映画のカタルシスにはならない。


昨年101歳で亡くなった親父の主要な遺品の一つが、戦後に始めた趣味の絵画制作で、残された膨大な作品があるのだが、その中に自身の戦争体験を描いた十数点の作品群がある。その戦争画を描き始めたのは彼が80歳を過ぎてからで、それは戦後50年以上過ぎてからであった。一連の作品群を収めた小さな画集が私費出版されたのは90歳も半ばになってからだ。それ以降も同様の主題で作品を描き続けたわけは、つまり彼の形而上の世界ではまだ戦争が終わっていなかったからだろうと思う。もしかしたら<戦後>は訪れてすらいなかったのかもしれない。


リアルの戦争とはそのようにいつまでも<戦後化>されることを拒むものなのではないだろうか。だから、我々の中で本当に前の<戦争>は終わっているのか?という問いに対する答えは、<戦後>というものなど永遠の虚妄でしかない、というのが答えではないか?森山未来演じる謎の男の<戦後>は、果たして訪れたのだろうか?


つい先日、沖縄県の辺野古基地に関する設計変更を、県の意志を無視し国が代執行を行った。そういう意味で、形而下の世界でも実際に戦後は終わっていない。それを想えと塚本監督は静かに訴えている。


(追記)今から50年ほど前、いくつかの政治党派が互いに<軍>を組織しお互いの殲滅を目指して、100人以上の若者が<戦死>した<戦争>があった。その、恐らく数百人をくだらない<兵士>たちの<戦後>のことをふと思ってしまった。今ごろ彼等はどうしているのだろうか?そんなことを考えてしまった2023年年の暮れ。


※ 映画「野火」の感想は以下

https://votanoria.exblog.jp/29216343/






# by votanoria | 2023-12-29 11:42 | 映画 | Trackback

なんてことない日

昨晩帰りのバスから駅前の広場を見たら、季節柄か数人のサラリーマン風のグループがコートを腕に抱えたまま、盛大に笑いながら手を振りハグを交わし別れを惜しんでいる。実に上機嫌で楽しそうで、こちらも思わず楽しくなった。その次の瞬間、ひとりが真顔に戻り相手の顔を覗き込む。1秒前にあった笑顔はほんの微笑みさえも残っていず、今は相手の腹の内を探るような目つきに変わっている。これだから人間というのは油断がならないし、愛すべき生き物だと思う。


さっきまで、話をしていたのは、最近お互いめんどくさい輩とめんどくさいやりとりをする羽目になったことで、最近そんな奴らが多くないか?という話題。まあ二人とも十分な年寄りで、どちらかと言うと大雑把な話し方が常だから、繊細を気取りつつ無作法で無神経な若い世代とのコミュニケーションには苦労が尽きないという話である。相手の若者もそう思っているに違いない。繊細というのを除いては。


そんなつまらない事をいつまでも考えていてもしょうがないので読んでいる本に眼を落とす。最近は最後のページまで読み通す気力がないので、どんどん読み終わらない本が溜まっていく。最後まで読み通す価値があるのか?とどこかで思っているのだろう。不遜なことだ。


きょうは朝から大工が入っている。プチリフォームである。和室を洋室に変えて、リビングの低いテーブルを高く上げるのだ。そろそろ畳から起き上がる体力が尽きかけているので思い切ってベッド生活に移行する。あとは建築家の趣味で設けられた土間をふさぎ、床にする。つぎ足す材は色も違ってパッチワーク状態になるだろうが、もうそんなのには構わないことにする。


階下の工事が終わるまでこれを書いているのだが、午後には終わるだろうからそれからお絵描きの時間だ。おっとその前に地元のボランティア団体のリモート会議があるのだった。思いがけず代表を押し付けられ、これも与えられた天命と思い粛々と12年もやっている。自慢は会員が少しずつ増えて、世代交代も徐々に進んでいること。世代交代が進まず、活動停止となる団体は多い。一度できた世代ギャップは埋めるのは非常に難しくなる。あと数年もすると町内の住民組織はほぼすべて活動停止に陥るだろう。


3万人をわずかに超える人口の我が町だが、8年ぶりに町長選挙が行われることとなって、ちょっと町中がざわついている。さっきも現町長の宣伝カーが家の前を通っていった。今度も当選するなら16年も同じ町長となる。12年もやった上に今度も無投票なんてことになるのは嫌なので、挑戦者が現れたことは歓迎する。争点は町の景観・環境を巡るところで、海岸縁に建築中の低層マンションの建築許可を巡る推進派と反対派の対立がきっかけとなった。町の課題はそれだけではない、という事実が挑戦者の足を引っ張ることになるのだろうが、さすがに16年は長過ぎるだろう、と言っている自身の団体代表12年も充分に長過ぎる。本当はボランティアなどという高邁な志はこれっぽっちも持っていないのだ。今年でお役御免となるよう慎重に画策中。


日は変わって、久しぶりにアトリエに籠ってじっくりと絵を描こうとする。本当は毎日でもアトリエで時間を過ごしたいのだが、忘れていた約束を果たしたり、会いたいとの申し入れに対応したり。どうせ選挙の事だろうが会う約束をしてしまう。ネットバンキングは便利で振り込みに使っているが、手順を少しでも間違うと途端に操作ができなくなる。それを解除させるのに(していただくために)サポートデスクに電話をして延々と待たされて事情を説明し、長々と本人確認を問いただされやっと再開すると、更に見たことがない操作を要求される。日々こなさねばならない家事もどきもいくらやっても終わらない。逆に増えていくのは何故なんだ?そんなこんなでどんどん絵を描く時間が奪われていく。明日の、明後日の時間が奪われていく。みんなどうしてそんなに俺の時間が欲しいのだろう。ただでさえ残りの時間は少ないのに。いらいらすると胸が痛くなる。役に立つのかわからないが、スマホのリマインダーという機能を使い始めた。


読みかけの本のことを書こうと思っていたが、面倒になった。代わりに今年春に読んだ柄谷行人の「力と交換様式」のメモを載せておく。アトリエで読みながら傍にあるスケッチブックにだらだらと書いたもの。他人が読んでも「なんのこっちゃ?」であろうが、もうどうでも良いという気分なので捨てる前に載せておく。


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# by votanoria | 2023-12-22 09:48 | Trackback