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今度の芥川賞は評判になっているようなので読んでみた。読んだのは数日前なのだが、実はもう思い出すのが難しい。短期記憶が壊滅的だという理由はあるのだが、今回はそれだけではないような気もする。端的に言うと、表面がつるつるした陶器でできている球体のように、どこにも掴みどころがない小説という印象だった。改めて読んでみると、つるつるした器の中には、細かで繊細な突起物が至るところに生えているのに、なんでそんな印象を持ってしまったのだろう。


第170回芥川賞「東京都同情塔」九段理江_e0348762_09032040.jpg


ザハ・ハディドが設計した国立競技場が実際に建てられている未来。それに呼応するような巨大建築物の設計コンペの準備を進めている建築家。その巨大建築物とは、新しい考え方で作られようとしているタワー型の刑務所で、そのネーミングを考える中で、外来語を過剰に好む我が国の<言葉>に対する鈍感さを嫌悪しつつ悩んでいるのだが、その案の一つ、「トーキョー・シンパシー・タワー」という外来語ネーミングを「東京都同情塔」と変換することで、コンペに勝ち残ることができる。


新しい考え方の刑務所とは、犯罪者を<同情されるべき人々=ホモ・ミゼラビリス>と規定し、娑婆の世界よりもよっぽど快適な生活空間を提供するのだ。ちなみに、刑務所に入らなくても良い者達を、ホモ・フェリシタトス=祝福された人々と呼ぶ、建築家に強い影響を与えた思想家の提唱する考えを採用した刑務所だ。と、簡単にあらましを書いたが、そんな事をしてもこの小説に対してはあまり意味なさそうだ。


建築と小説を、その構築の仕方に共通点を見出して、主人公が<東京都同情塔>を構想するのと並行して、読者が読んでいる小説が(生成AIの助けを借りて)構築されていく、ということをおもしろがれば良い小説なんだと思った。選者の川上弘美さんは、「作者の小説完成欲の強さに、たいへん惹かれました。」とおっしゃっている。


<言葉>を巡る葛藤が描かれるのだが、その<言葉>は今やAIが生成する<自然言語>に浸食されつつある。しかもAIはコンプライアンスに配慮した<言葉>しか吐かないのだ。AIが急速に普及するなか、そんな環境下で育つ若者は、果たしてAI以上の意味ある言葉を自分の言葉で語ることができるのか?そんな時代を迎えてしまったいま、作家はどのように<言葉>を積み上げて小説という建築物を構築していけば良いのだろう?という問題意識が窺える。


と、言いつつ、たったいま<意味ある言葉>と言ったが、実はこれは上から目線のものの言い方で、近未来の日本ではそんな言い方はしない。言葉にいかなる権力も持たせないように配慮するコミュニケーションが近未来の話法になるのだろう。建築家が愛玩する若者の語りが象徴的だ。どこにも掴みどころのない印象を持ったのは、そんな語り口の所為なのかもしれない。


一部に(作家は5%くらいと言っている)AIの生成する文章を組み込んだ小説だという事が話題となっているが、そのAIが普通に使われるようになった近未来を舞台にした小説なので、その当否をあげつらっても意味はないと思うのだが、意識的なのだろうが、文体もどこかChat GPT的な感じがする。小説家が綴る言葉と、コンピュータが生成する言葉の差異。それを考えながら小説を読まねばならなくなったとしたら、すごい時代になったものだけど、実はもう既にそういう文章をかなりの頻度で読まされているのかもしれない。


追記:かつての職場が、新宿御苑を見渡せる絶好の場所にあって、天気が良い春の日にはよく御苑の広場にさぼりに行ったりしていた。そこに見上げるような塔があると考えたら、しかもそれが今で言う刑務所だったとしたらなかなかおもしろい。


# by votanoria | 2024-02-22 09:08 | Trackback

観に行こうと思って上映時間を調べたら、もう11回しかやっていないところも多く、上映館も限られてきた様子なので、見逃す前に急いで観てきた。


映画「哀れなるものたち」主演:エマ・ストーン_e0348762_15274523.jpg


例によってストーリーはググっていただくとして、まあ、かなりインパクトがある映画だ。映倫が18歳以上に指定した意味においても、観る者に突き付けてくるテーマにおいても強烈だ。確実にデートムービーには向いていないだろう。


映像は凝っていて、特に美術が手が込んでいて見ごたえがあった。なんだか昔のミュージカル映画の背景のような作りだなあと、思ったりもした。「メリー・ポピンズ」とか、そんな感じじゃなかったろうか。そういう意味では、ファンタジー感もあるんだけど・・・。主演のエマ・ストーンが製作にもクレジットされているのが目を惹いた。それだけ思いが強いのだろう。体当たり演技も見ものだった。


シンプルに言うと、女性の身体に関する、女性による、女性のための<主権宣言>という事だろうか。もうことさら女性とか男性とか言わなくても、そこらへんは問題じゃないという時代かもしれないが(前項の「TAR」のように)、この映画に関しては<女性の>と言うのが適切だろう。


「自分の身体は誰の物でもなく、誰の支配にも属さず、自分自身だけがその使い方、行為を決めるのだ!」という宣言なのだろう。最初に「同志諸君!」と入っていてもおかしくないかもしれない。そこでは、<男性>に対する説得や交渉など最早なく、ただ自分が求める自由と快楽を得る権利が私にあり、私以外にはないのだ!という宣言ではないだろうか。


ただ、それは<勝利宣言>なのか?というと、決してそうではないことが、ことさら表現を過激化させているようにも見える。どちらかと言うと、<戦闘宣言>に近いのかもしれない。もしかしたら<蜂起宣言>だったりして・・・。


前項の「TAR」でも感じたことだが、欧米諸国ではもう同性婚などは当たり前に常識だし、女性の権利の拡張というか復権も、我が国とは違って、格段に進んでいるのだろう。そうでないと、このような映画は作られないし、ゴールデングローブ賞も受賞しないだろう。そんな風に思えてしまう。いや、逆に進んでいないからこういう映画が作られるのか?どっちだ?そこらへん誰か解説してくれないだろうか?


そこの確信がないので、ちょっと途方に暮れるような映画でもあった。

うかうかしていると、山羊と合体されちゃいそう。




# by votanoria | 2024-02-14 15:32 | 映画 | Trackback

封切りの時に観たかったのだが、見逃してしまい、アマゾンプライムビデオで視聴。


映画「TAR」主演ケイト・ブランシェット_e0348762_17050933.jpg


主演のケイト・ブランシェットがとても良かった。この役者さんの映画は幾つか観てきたが、齢を経てますます素敵になってきた。その魅力を存分に味わえた映画だった。


最初驚いたのは、普通最後に流れるクレジットが冒頭で流れること。思わずもう一度頭から見直してしまった。配信ならではの見直しだが、この映画はクセありだぞ!と最初にお知らせされたようなもの。


確かにクセはありました。スタイリッシュで華やかな世界観と、ブラックでありながらとてもチャーミングな主人公の振る舞いにぐいぐい引き込まれていき、その世界が崩されていく過程がまたイマ風な仕立てで、スリリングでもあった。それを支えているのがケイト・ブランシェットの圧倒的な存在感だ。いや恰好良い!


しかし、観終わった後に、少し冷めた状態で振返ってみると、違った世界が見えてきた。華やかで現代風の、様々な意匠が凝らされているが、それを剥ぎ取ってみると、意外や古風な恋愛ドラマと、セレブの転落物語が見えてくる。


仕事にかまけて家族をかえりみず、業界でのトップの地位を目指す(男)が、浮気相手を仕事上の踏み台に利用したあげく、利用価値がなくなると非情にも切り捨てて更なるキャリアの上を目指す。しかし、そんな酷い(男)が許されはずもなく、かつての恋人の自殺がスキャンダルに発展し、最も身近な助手にも裏切られ、家族にも愛想をつかされたあげく業界から放逐され、全ての名誉も地位も失ってしまい、行き場を探してさ迷い歩く。


こんな古風な話をいま風に飾り立てると、あら不思議、おしゃれでスマートな映画となりました。

そんな様々な意匠を楽しむ映画でした。







# by votanoria | 2024-02-11 17:13 | 映画 | Trackback

最近、映画を観ろ!という無言のプレッシャーを感じているものだから、都会に出たついでに一番上映時間が近かったこれを観た。全くの予備知識なし。チケットを買ってからググってみると、どうやら漫画原作らしい。



映画「カラオケ、行こ!」監督:山下敦弘_e0348762_14320289.jpg


ストーリーはググっていただくとして、観ている本人があからさまにターゲットじゃなかったので、あまり意味ある感想は述べられないのだ。そういう意味では選択を誤ったのだろう。でも一応観たので感想を少しだけ。


原作なのか、演出なのか、脚本なのか、何が原因かわからないが、どこか不完全燃焼の印象だった。。

あり得ないとは言え、ホラーやゾンビ映画のような特異な世界観ではなく、もしかしたらヤクザと合唱中学生という取り合わせもあるかもしれないじゃないか、というそのあり得るかもしれない、けど現実にはあり得ない、というこの距離感が難しいのだろうか。寅さん映画はやはりそこら辺はうまかったのだろう、なんて一緒にしちゃいけないか。案外若い人たちはおもしろがって観ているのかもしれない。


平日昼の上映だったが、客は結構入っていた。時たま笑いが起きていたので、楽しんでいたのだろう。芳根京子さんのお花畑教師がおもしろかった。


この監督の映画は「天然コケッコー」と「マイ・バック・ページ」以来のようだ。そういう意味ではキャリアも長く、もうベテランと言ってもおかしくないだろうが、未だこのサイズというか、カテゴリー?の映画を監督しているのが、門外漢からするとどうも解せない気がした。





# by votanoria | 2024-02-06 14:41 | 映画 | Trackback

以前朝日新聞で連載していたものだが、最初の方を見逃していたので、頭から読みたいと思っていたもの。本当は文庫本が出た時に買おうと思っていたのだが、久しぶりに図書館に行ったら並んでいたのだ。返してしまうと、もう一度あそこはどうだったっけ?と読み返すことができないのが図書館の欠点。文庫本が出たらまた買うかもしれない。



多和田葉子「白鶴亮翅」朝日新聞出版_e0348762_11302953.jpg



270ページほどだが、最初から最後まで章立てというものがなく、エピソードからエピソードに最初から最後までひとつながりになっている。わずかに、連載の区切りだろうが、一行スペースがあいているだけ。それだけエピソードとエピソードが飛躍なく、なめらかに糸を手繰るように展開していく。だから、引き込まれるように一気に読めてしまう。


最近ドイツ南西部の町からベルリンに越してきた日本人翻訳家。引っ越し後まもなく、隣人のドイツ人らしきM氏と知り合いになり、アジア人の誼で一緒に太極拳の教室に行ってくれないか?という頼み事に付き合ったことで、教室に通う様々な属性を持つ女性たちとの関係の輪が広がっていく。翻訳家は現在クライストの「ロカルノの女乞食」という短編小説を翻訳中で、エピソードの展開と翻訳の進み具合が微妙に交差しながら話は進んでいく。


中国人の太極拳指導者、酒好きのロシア人ベンチャー投資家、恥ずかしがり屋のフィリピン人、大学に居た頃のゼミの仲間、元グリーンピース活動家の身体障碍者、その歯の治療を行う歯医者など、文化も違えば個人的事情も様々な、唯一共通するのは現在、ドイツの、ベルリンに住んでいるだけ、という女たちの異文化交流が興味深い。この、<ドイツの>、<ベルリンに>、というのが一つのポイントで、ドイツとロシア、ドイツと日本、ドイツと諸外国との関係や、国内の問題を仄かに炙り出す。


隣人のM氏は戦後東プロイセンから移住してきたドイツ人で、かつて東プロイセン地方に存在し、今は消滅してしまったプルーセン人の末裔という同性のパートナーと同居していることがわかり、そんなことも翻訳家の興味を強くひく。(元ドイツの飛び地だった東プロイセンの歴史は、主人公ならずとも、とても興味深い。少し掘ってみようかな)


題名は、本来は格闘技である太極拳の代表的24パターンの内の一つで、鶴が大きく羽を広げて後ろから襲ってくる敵の攻撃に立ち向かう時の体勢のこと。多和田さんの小説だから、そんなわかりやすいオチがあるわけではないが、最後にこの「白鶴亮翅」が役に立ったところで話は終わる。彼らの異文化交流はそのあとも続いていくようだ。何故なら「ロカルノの女乞食」の翻訳はまだ終わってはいないようだから。


# by votanoria | 2024-02-03 11:35 | | Trackback