2024年 10月 10日
大江健三郎「万延元年のフットボール」
入院中「百年の孤独」を読んでいる時に、なにかで本書がそれに匹敵する日本のマジックリアリズム小説だ、というような評を読んだのでトライしてみた。実は今年の春に一度読んだのだが、少し読み急いだようで、あまり記憶に残っていなかったのだ。これも耄碌した所為だと思うのだが、今度はしっかりメモをとりながら読んだ。
いやあ、おもしろかった。少々今の時代に合わない古い表現もあるが、それをものともしない迫力がある。読んでみるとマジックリアリズム云々はどうでも良く、その影響を受けていようがいまいがそんなことを超越した独自の鋭敏な小説世界があった。それが日本(日本人)に問いかける鋭い問題意識は、現在にまで届く射程の長さを持った小説だと思った。
社会問題や現実の政治過程と切り結びながら、それが古びて見えないほど(古びようがないのだが)本質的で普遍的な、個人-性-家族-共同体-国家-資本主義の日本独特の(えぐい)もつれ方を抉り出し、その解決不能性を再度個人に還元して、とるべき態度を問い詰めてくる。そういう小説は稀有だろう。さすがノーベル賞作家などと言ってみる。
当時の少々古風に見える意匠を拭いさってみると、令和の御代になっても少しも変わらない関係性=もつれ方が見える。どうやらもつれは解けなかったようだ。そして万延元年からの100年の記憶の上に更に50年の記憶が降り積もり、もつれを解こうとした昭和の戦いの記憶も埋もれてしまった。そういう意味では、情況が文学を挑発し、文学が情況を牽引する(逆もまた真)生き生きとした関係があった頃の記念碑的作品だったのかもしれない。
今は「解」がみつからない問題が山積みとなり、未来が見通せない不安の時代だ。それはもう「漠然とした不安」を通り越し、破局は確実に起こるのであり、それがいつ起こるのか?という「確定した不安」の時代なのだから、この小説はその時がくるまでもう少し読み継がれていくのだろう。などと毎度のことながら適当な事を言って終わりますが、次は少し村上春樹を読んでみようと思っている今日この頃でした。
2024年 10月 05日
ドラマ「シンパサイザー」パク・チャヌク監督
カレンダーをめくると今月を含めてあと3枚しかない。カレンダーが最後のページにならないうちに何ができるのか?そんな事を考えていると、少し胸の動悸が早くなってくる。
ドラマ「シンパサイザー」U-NEXTで
友人から薦められて観た。ベトナム戦争末期の頃に、CIAに雇われた南ベトナム情報部員?に偽装する北ベトナムのスパイが、米軍の撤退とともに北の指示によりアメリカに渡り、南ベトナムへの反攻を計画する元南ベトナム軍の<将軍>の部下として、反攻作戦の情報を北へ流すスパイの話し。スパイもののコメディドラマというので、最初はやや引き気味で観たのだが、ベトナム難民が次第にアメリカ社会に根付くようになっていく過程が描かれていてとても興味深かった。
実際にそんなスパイがいたかどうかは解らないが、スパイものをシリアスなドラマや活劇にせず、エンターテインメントの中心に据えて笑いを込めて描く手法はなかなか面白かった。解ったことは、スパイって異文化との接点にいないといけない仕事なのだな。
助演のロバート・ダウニー・JR が四役を演じていたのだが、実は二役しか解っていなかった。CIAと映画監督であとの二役は全く意識していなかった。だから時々?となるシーンがあったのか。最初はCIAも監督もよく似た俳優だなあと思ってみていた。残念。潜入を常とするスパイを意識した配役なのだろうか。
監督はあの有名なパク・チャヌク監督だ。多彩な監督だなあ。同じアジアの民として思うところはあったのだろうか。そういえば韓国はベトナムに派兵していたなあと余計なことを思ってしまう。サイゴンの大統領官邸に北ベトナムの戦車が突入するシーンは鮮明に覚えている。1975年4月30日。ちょうど一月前に小さな映像制作会社に入社したばかりの頃だった。
2024年 09月 03日
百年の孤独
暫く入院していた。3年前にも同じ症状で入院したことがあるのだが、それが増悪して再発したもの。「増悪」というワードは医療の専門用語らしいが、いかにも悪くなっているようで恐ろしい。3年前は10日の入院で済んだのだが、今回は28日の入院だった。この3年でそれだけ身体が中心から崩壊しつつあるのだろうか。おかげで今年の夏の猛暑は、病院の快適な環境のおかげでほとんど体験せずに済んだ。
カブリエル・ガルシア・マルケス「百年の孤独」鼓直訳
新訳かと思ったら、そうではなく旧訳を若干改訂して文庫化したものだそうだ。初版が1973年とある。以前読んだのはその数年後だろうか。記憶ではとにかく、その自由奔放、奇想天外なマジックリアリズムという奴にやられてしまい、こんな小説世界があるのか!と夢中になって読んだ記憶がある。再読してみると記憶違いも結構あったりした。記憶の中のマコンド(ブエンディーア一族が苦難の旅の末に開いた町の名前)は、もっと湿気に満ちたジャングルの中にあって、町というより一族の砦のように思っていた。
入院中にいったん読み終えたのだが、他に読むものがないので2周してしまった。お陰で似た名前が繰り返し何人も出てくる複雑な関係もどうやら整理できて、七代に渉る一族の栄枯盛衰をたどることができた。ひと回り目では、アウレリャーノ・ブエンディーア大佐が32回にわたる反政府武力反乱の末に、腹心の部下の反対にもかかわらず、政府と妥協的な和解協定を結び故郷に帰るまでが小説の核心で、その後のことは長い付け足しのように感じたのだが、2周目では、その後の一族と、一族が切り開いたマコンドの町が滅びていく過程にこそ、この小説の魅力が詰まっているのだな、と思った。
同時に、夢と欲望に突き動かされる、いわば奇人変人ばかりの一族の男達の歴史と並走して、男たちが産み散らかす子供達と、その胃袋と、男たちの唯一の帰り場所である屋敷を淡々と手入れ(ケア)し、最後まで一族の盛衰を見届ける女達の物語としての魅力を発見した。ファミリーラインが伸びていくためには、誰かしらの<ケア>があってのことだ。1970年代末にマジックリアリズムに夢中になっただけの迂闊な読者であったのを反省する。半世紀ぶりの再読で、その頃には見えなかったもう一つの物語が見えたのは収穫だった。
人の記憶が伝えていけるのは、起きたことのほんの僅かなことでしかない。5年前の記憶は10年後にはおそらく半分にも満たないだろうし、50年後にはほんのいくつかの断片しか伝わることはないだろう。一族の記憶ですらそうなのだから、郷土の歴史、国の歴史などは言うまでもない。砂で作られた城が年を経ずとも雨風によって元の姿をとどめることができないように、一族の歴史も、国の歴史も長い年を経て伝え継ぐことはできない。唯一無二の個別性が大きな時間の流れの中で歪曲され潮に吞まれ、流され見えなくなっていく不可避性に耐えるには、あきらめの中で孤独の中に逃げ込んで不機嫌に過ごすしかないのだろうか。
※いま思い出したが、「百年の孤独」と一緒に病室に持ち込んだのが「方丈記」だったので、気分がその方向に傾いているようだ。
※あれだけ権勢を誇った安倍晋三のことが急速にメディアの集合的な記憶から抹消されているのを見るにつけ、歴史の改竄などは如何にたやすいことかと思う。
※物語の底流にある、近親婚に対する怖れと甘味な誘惑について書こうと思ったが、力及ばずである。2周目でアマランタの終生にわたる秘めた恋に気づいた時、少し動揺するとともに猛烈に感動したのだが、誤読でないことを願う。
2024年 07月 10日
松里公孝「ウクライナ動乱 ソ連解体から露ウ戦争まで」ちくま選書
一部で、目から鱗が落ちたと評価されているらしいので、読んでみた。
書かれているのは、ソ連崩壊後のウクライナが、2014年のマイダン革命によるEU志向のキエフ中央政権成立と、それに反発して起きたドンバス戦争という東部のキエフ中央政権からの分離独立運動が、遂には露ウ戦争につながっていった。その間のウクライナ国内の様々な政治勢力の内部事情と抗争の推移を、研究者として現地での人的交流の中で見聞した事情を伝えるもの。
大変読みにくい本ではあったが、読んでみて、なるほどなあと思った。こんな事情があっての今のこういう事なんだ・・・。というのは解った。書かれている詳細で煩瑣なもろもろは簡単に紹介できないので、直接本書に当たってくだされ。
露ウ戦争はウクライナにとっては、EU的新自由主義市場経済か、ロシア的家父長資本主義経済か?といった<国制>を巡る戦争でもある。結果的にそういう構図になっている。どっちもどっちだが、そういう意味では冷戦構造の中で起きた朝鮮戦争と似た性格の戦争なのかもしれない。
ロシアのウクライナ侵攻が始まった当時に、本書のような詳細なウクライナの国内事情はどのメディアの報道にもなかったのが残念だ。総じてロシア酷いじゃないか!ウクライナ頑張れ!という論調だけで、自分もその論調に流されていたと言って良い。残念だ。反省しようにも反省の材料がなかったと言い訳しておく。そういう意味で一読の価値あり。
ただ、なるほどなあ、と思ったが、それで反キエフ政権、分離派勢力支持⇒ロシア支持になるほどではない。確かにウクライナ東部の、ウクライナからの分離運動を進めてきた勢力の内在的論理は理解できた。としても、何故にロシアが(当初は)ウクライナ全土の占領=東部分離派の人民共和国支援ではなく。キエフ政権打倒=全土制圧を意図した侵略を行おうとしたのか?その当初の目的がウクライナの抵抗によって、東部とクリミアの領土的確保に変わって来た現在だが、分離派の要請があったとしても、当初の意図に正当性はないだろう。
それに。東部における分離独立を問う選挙によってドンバスに二つの人民共和国(ドネツク人民共和国・ルガンスク人民共和国)が<合法的>に産まれたとされているが、その選挙がどのように行われたのか?といった手続きに対する評価はない。概して分離運動の合法性・正統性に対する問題意識は希薄に見え、分離運動側が発表した数字だけを引用しているように見える。そういう論調なのでロシア支持という訳ではないが、ウクライナの分離運動寄りに見えるので、結局はロシア支持に近く見えるという事だろう。
その選挙だが、選挙のたびごとに新しい政党ができて、目まぐるしく政治の重心が移動する。要するに新興財閥(オリガルヒ)や地域の政治ボスが利権確保のための私党を立て正統性を標榜し、私兵を擁して争い、選挙で選ばれたとされても、行政執行は多額の賄賂がないと何も進まないといったウクライナ固有の事情はどこか中世的にも見える。ロシアも含めた旧ソ連圏はそんな中世的匂いがするなあと思うのである。
本書はウクライナという国の内情を詳しく教えてくれたし、だから今こうなってるのか、という一定の理解は与えてくれている。目から鱗は1枚落ちたかもしれないが、鱗は1枚だけなのだろうか?と、反省を込めて言ってみる。
2024年 06月 28日
「平家物語」読了
講談社学術文庫「平家物語」全訳注 杉本圭三郎
死ぬ前に読んでおきたい古典シリーズということで、今回は平家物語に挑戦した。
講談社学術文庫版にする前に、図書館で岩波の古典文学大系とたしか筑摩の全集から借りて読んでいたのだが、貸出期間が短過ぎるのと(読むのが遅いだけ)、注釈の文字が小さ過ぎて苛々するので(老眼が進んでいるだけ)、じっくりと手元に置いて読みたいのでこれにした。
これの良さは、ある程度話が進むと、現代語訳があり、さらに語釈と解説があること。だから解らないまま話がどんどん進むことはない。逆に言えば、合戦シーンの良いところで現代語、語釈、解説となると話の腰を折られるような感じがすることだ。古文にある程度自信がある方は岩波古典文学大系などで読まれるのが良いと思う。
そもそも平家物語を読んでみようと思ったのは、誰かが雑誌で平家物語を音読していると、泣けて泣けて、ある意味デトックス的な効果があると書いていたのを読んだことがきっかけなのだが、そういう意味では通読しやすいので岩波古典文学大系の方がその効果は得られるのかもしれないw。
この講談社学術文庫版は、以前は全12巻で出ていたものを4巻にまとめたものらしく、1冊ずつが超厚い上に重たい。寝床の中で読むのには全く適していない。電車の中でも座っていないと分厚い本が持ちにくく読み難いところはあるのだが、個々のエピソードの理解も、エピソードとエピソードの関係も掴みやすく、時間はかかったが堪能できた。
栄華を極めた一つの時代が終わりを迎えようとしている。その滅びの、何もかもが瓦解していく渦の中で藻掻く一人一人の人物の心の動きが手に取るように胸に迫って来る。読み終わってしばし呆然としていると、改めて有名な冒頭の一節が凄みをもって蘇ってくるんだな。いや、素晴らしい。泣きはしなかったけどいい時間を過ごさせてもらった。
ところで、先日、昔勤めていた会社の同窓会があって、およそ半世紀前に同僚だった仲間たちと会ったのだが、その会社はもう無いのだ。以前は業界のトップブランドで綺羅星のような人材を世に提供し、業界の中では比類ない栄華を誇っていたのだが、そのブランドを一身で支えていたような人物が突然亡くなってしまって、そこから崩壊が始まったのだった。結局、同業大手に買われ子会社となったのだが、いつしか名も変わり、子会社の身分も失い、遂には業界の歴史に名のみ留めるばかりとなったのだ。
背後には産業構造の変化という大きな波が押し寄せて来ている中での悲劇であったのだが、平家物語で言えば、平重盛という平家随一の武将であり智将であったリーダーを失ったことから平家の衰退がはじまったのだなあと思いながら、その後ちりぢりばらばらに離散し、なんとか生き延びてきた者達が昔の栄華を偲びながら酒を酌み交わす、いわば落武者集会みたいな同窓会であったのだ。たまたま平家物語を読んでいるところだったので、妙な連想が働いて、あまり酒も進まなかったという、どうでもいい話。
生まれてこのかたずっと後退戦を戦っている経験で言うと、福原遷都、あれが悪手だったのだろう。自らの敗勢を全国に知らしめてしまい、付くべきはどっちなのか?ということを明示してしまった。どうせ敗れるのなら王城の地で天子とともに華々しく散るのだ!と決意すると良かったのに。諸行無常の響きありである。
しかし、平家の武将たち、少しだらしなさすぎ。総大将の宗盛の無様な生き残り方は言うまでもないが、敵前逃亡の末、入水してしまう平維盛など、哀調を帯びたエピソードとなっているが、全然同情できん。唯一壇ノ浦での能登守教経の奮戦が震えるほど恰好いい。
お気に入りエピソードは、なんと言っても、木曽義仲の最期。乱戦の中、主従ただ二騎となってしまい尚も敵が迫る中で、義仲が乳母子の従者今井四郎兼平に向かって「これまでのがれくるは、汝と一所で死なんと思ふ為なり。所々でうたれんよりも一所でこそ打死をもせめ」と言う。四郎は尚も主を逃すために必死に説得するシーン。これは泣けた。
あとは、やはり俊寛だろうか。能の演目にもなっているそうだが、平家打倒の企みが露見した末に、一緒に島流しになっていた他の二人だけが許されて迎えの舟に乗り去って行こうとしている。置き去りにされる俊寛は船に取り縋って「さていかにおのおの 俊寛をば遂に捨てはて給ふか。是程とこそ思はざりつれ。」「是乗せてゆけ 具してゆけ」とをめきさけべども漕ぎ行く船は白浪ばかりを残して去っていく。ああ・・・。これもぐっと来た。琵琶法師の語りで聞きたいものだ。
さて、源氏物語も読んだし、平家物語も読んだ。次に何を読もうか?
「宇治拾遺物語」は町田康の現代語訳で読んだが、あれは読んだうちに入らないような気もするから、次の次くらいに読んでみる。それより「百年の孤独」の新訳が出たそうなので、探しに行こうかと思う今日この頃であった。