人気ブログランキング |

映画「ジョーカー」

俳優の評判が高いようだし、勧める方もいて観た。


e0348762_15432315.jpg

確かに演技は素晴らしいもので見応えがあったが、お話がどうもね。やっぱりどこか漫画的というか、予告編で想像した通りの話の進み具合だったので、最後まで乗り切れないままだった。もっと主人公の妄想をうまく使えば良いのに、などと一人ごちる。俳優の演技を堪能すべし。




# by votanoria | 2019-12-11 15:48 | 映画 | Trackback

「アイリッシュマン」

劇場でも公開されているようだが、休憩なしの3時間29分を劇場で観るのは無理!ということで、ネットフリックスで一気に観た。案の定途中でトイレに2度立つ。まあビール飲みながらなのでしょうがない。


e0348762_08241773.jpg


デ・ニーロとアル・パチーノの若作りCGが話題になっているようだが、そんなに若くも見えなかった。多くの人が指摘しているように体つきや動きが若者のそれとは違っているから余計にそう見えるのかもしれない。でも3時間29分という尺の中で観ると切れ味なんかはあまり関係なく、逆に遠い昔の事である事を感じさせて、それもまた乙な感じがした。


そんなことより、題名にもなっているけど、アイルランド系移民の子とされるデ・ニーロは、どう見てもイタリア人にしか見えない。その事のほうが気になった。あれは典型的なイタリア人顔じゃないのかね。


ジミー・ホッファとかチームスター(全米トラック運転手組合)というのは昔新聞や雑誌で結構目にしたもので、後日アメリカ東部で仕事をした時に現地スタッフが電源車のドライバーに凄く気を遣っているが解ったし、ちょっとでも他のスタッフが車体を触っただけで猛烈な勢いで口汚く罵っているのを見て(口汚い事を言っているのだな、ということは見ているだけで解るもんだ)、恐るべし、チームスター!と思ったことがあった。今思うとあれはマフィアだったのだね。チームスターほどとは言わないけれど、日本の労働組合ももう少し強面でも良いように思ったりして。



T-34 レジェンド・オブ・ウォー」


e0348762_08241858.png


ロシア製の戦争映画をIMAXの大画面で見るという体験。戦争映画というよりは冒険活劇の造り。なんだか「アベンジャーズ」を観た時と同じような印象だった。ロシアの人たちもこの手の映画が好きなんだろうか。逆に西側諸国合作の「スターリングラード」はロシアで受けたのか気になった。




# by votanoria | 2019-12-05 08:34 | 映画 | Trackback

ブリコラージュ

通っている絵画教室では隔週で座学がある。ちゃんと美術史などを学んだことのない身にとってはとても勉強になる時間だ。美術史以外にも、画材の扱い方や、技法の解説などもあるのだが、時々ちょっと変わった講義がある。


前回は「ブリコラージュ」についてだった。言わずと知れたクロード・レヴィ=ストロースの「野生の思考」で紹介された重要な概念だ。言葉自体は「手仕事」とか「器用仕事」とかというフランス語では一般的な言葉。日曜大工とかも近いかもしれない。それを行う器用な人はブリコルール(器用人)という。しかしレヴィ=ストロースはこの一般的な言葉を使って、神話と呪術の成り立ちを<構造>的に解明し、返す刀で当時全盛であった実存主義=サルトルを完膚なきまでに批判し、息の根をとめてしまったという、現代思想史上でもエポックメーキングな重要な著作だ。


そのブリコラージュをどう見ても平均年齢70歳は優に超えている俺たちに講義するのだから、認知的にどうかな?と思うのだが、どうも吾が師匠は現代思想が好きらしい。時々そんな感じを漂わせるのだ(笑)。



e0348762_15380486.jpg


もちろん絵の教室だから、サルトル批判の部分(最終章である第9章「歴史と弁証法」)には触れずに、ブリコラージュの非構成主義的な制作手法に絞っての話だ。


エンジニアリング(設計主義)に対してブリコラージュ(手仕事)、部品に対して断片、完成主義に対して未完成主義という考え方で創作する方法もあるよ、といった話だ。あるよ、というより、それでやってみたら、という話に近いのだけど。そもそもこの講座は抽象画コースの一環なので、話は抽象画をどのように創作したら良いのか?という考え方のアドバイスになっている。


プラクシスとポイエーシスという話もあった。これはアリストテレスの概念だ。プラクシスは「人間社会を対象とした実践」といった意味で、絵画技法的には作らないといけないという必要があるから作る態度。ポイエーシスは「自然を対象とした制作」といった意味で、作りたくて仕方ない欲望に従って何かを作るような態度。


プリコラージュ作家の例として、大竹伸郎、ジョセフ・コーネル、サイモン・ロディア、フェルディナン・シュバル、パウル・クレー、櫃田伸也を挙げてくれた。


大竹伸朗(おおたけしんろう)

https://ja.wikipedia.org/wiki/大竹伸朗

ジョセフ・コーネル(JosephCornell

https://www.wikiart.org/en/Search/Joseph Cornell

サイモン・ロディア(SimonRodia

https://ja.wikipedia.org/wiki/サイモン・ロディア

フェルディナン・シュバル(JosephFerdinand Cheval

https://ja.wikipedia.org/wiki/フェルディナン・シュヴァル

パウル・クレー(PaulKlee

https://ja.wikipedia.org/wiki/パウル・クレー

櫃田伸也

https://www.google.co.jp/search?q=櫃田伸也


とても納得する話で、大変ためになったので帰宅してから本棚の奥から「野生の思考」を引っ張り出して読んでみた。


******************

中で抽象画について脚注の部分で短く触れているところがあった。要約すると「非具象絵画とは、目的と用途を全面的に排除し、手法を主題の如く取り上げ、制作の偶然性の組織的利用をもってする、存在しないモデルの写実的模倣である」という見事な説明。


なるほどね~。手法が主題だってのがちょっと目から鱗だ。何を描くか?は必要なくて、手元にある材料を見回して、とりあえず描き始めて、描きながらどうしたら一枚の絵になるのか?を考えれば良いって事か?なんか普段やってる事に近いと思いつつ「存在しないモデルの写実的模倣」とまでゴールが見えないで描いている力不足を反省。


神話と呪術

それで、ブリコラージュと神話や呪術がどのようにつながるのか?というと、つまり長い時間の流れの中で伝えられてきた神話や呪術は、時代時代に起きる政権交代や侵略や征服、流浪などといった大きな出来事に遭遇すると、その事を語り継いできている一族や民族の昔語りの中に、その出来事を取り込もうとするのだが、その時点で一応の整合がとれた話に仕立てるために、色々な話の断片や、聞いたばかりの遠い国の話などをうまいこと組み合わせて、その時点における権力者・権威者が受け入れられる話として再構成するのだが、その過程があたかもブリコルールが作るブリコラージュのようじゃないかと、レヴィ=ストロースが民俗学的な調査の末に神話の<構造>を解明したのだった。そして現代もなお、ある思想や家系を神格化する時や、民族の優位性を誇る幻想の創出や、指導者を崇めたてる時などは、ブリコラージュのように構成されるのだ。


そう考えてみると、昨今の新しい?歴史認識を巡る論争などは、まさに我々は新しい神話創世の時代に生きているのかもしれないなどと思うきょうこの頃である。


※後は自分のためのメモなのでお忙しい方はスルーしてください。


ブリコラージュは第1章の「具体の科学」にある。

新石器時代に人類は土器や織布、農耕、動物の家畜化などを始めた。これは偶然とか、自然現象を受動的に見ているだけで生まれたものではなく、何世紀にも渡る能動的かつ組織的な観察や、大胆な仮説とその検証を行って成り立ったものであり、それを為し得たのは、科学的精神態度と、根強くつねに目覚めた好奇心と、知る喜びのために知ろうとする知識欲がもたらしたものである。


神話や儀礼は観察と思索の諸様式の名残を現在までに保存している。呪術と科学を対立させるのではなく、この両者を認識のニ様式として並置する方がよいだろう。神話的思考とは類推と比較を重ねる作業であり、常に構成要素の新しい配列を試し、でき上がりは同じでも内部の配列が違っている事もある。


同じ材料を使ったたゆまぬ再構成の作業は、構成されているものが構成するものに、また構成するものが構成されるものに変わっていく。(昔の作品が材料になり、その材料をもとに違った作品となるような事?)


材料の断片を再構成するのはブリコラージュ的な作業。手仕事だから構成作業の中で当初の意図とずれていく部分があるのは当然。つぎはぎ、矛盾、関係の転倒(前後・位置など)


美術は科学的認識と神話的思考の中間にある。

美術家は科学者と器用人の両面を持っている。

科学者は<構造>を用いて<出来事>をつくる。構造:人工的自然的構造

器用人は<出来事>を用いて<構造>をつくる。出来事:自然的社会的出来事

美術は事物と出来事を集合させて構造の発見に至る。

神話はある構造から事物と出来事の集合を(再)構成する。


しかし、その考え方は美術的に優れている=美しい道具にも当てはまるのか?


出来事とは機会・制作・用途の偶然性の一つの様式でしかない。つまり出来事は事物と偶然性の集合であり、三者の相対的分量の違いによって造形美術・原始美術・応用美術(工芸)が成立する。


構造/出来事・必然性/偶然性・内在性/外在性、これらの均衡は不安定で流動的。

美的快感とは認識過程の転倒にある。







# by votanoria | 2019-11-22 15:50 | | Trackback

久々にこっち方面。
以前読んだこの手の本より確定的な言い方が増えているような気がする。
科学は日々進化しているのだな。

e0348762_10513162.jpg

・この世界の全ての物質の最小単位である素粒子は紐状である。
・紐の長さは原子の直径(1000万分の1ミリ)の1兆分の1のさらに1兆分の1(10のマイナス35乗~33乗メートル程度)
・その紐は円環状に閉じた紐と、閉じていない紐の2種類がある。
・現在解っている全ての素粒子は閉じていない紐。
・その紐は常に1秒間に10の42乗回以上振動している(1秒間に1兆回の1超倍の1兆倍の100万倍以上)
・紐は振動のサイクルの違いによって性格が違う素粒子として振舞う。
・紐は9次元空間で振動している。というか我々の宇宙は9次元空間で我々は3次元までしか認識できないだけ。
・閉じていない紐の一端は我々の宇宙を構成していて、そこから離れられない。
・別の一端は別の宇宙の1端として向こうの宇宙を構成している(これちょっと曖昧です)
・閉じている紐は未発見の重力を司る素粒子である。(ダークマターか?)
・閉じた紐=重力だけは他の宇宙と行き来できる。
・理論上、並行宇宙は10の500乗くらいある。

なんだって。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。。






# by votanoria | 2019-11-04 17:14 | | Trackback

飲み会で都内に出たついでに映画と展覧会。やっぱり都会は良いなあ。。

映画「ホテル・ムンバイ」
飲み会の席で、「ジョーカー」よりお前の好みはこれだろうという説もありつつ、もう終わりそうなのがこれだったので観た。

e0348762_09212881.jpg

確かに好みという点では当たっているところもあるのだが、なんとなくもやもやする点もある。50年ほど前、最初に一人で観た映画が「アルジェの戦い」であり、子供心に大層衝撃を与えた映画であったのだ。つまり、この映画はテロリスト(とレッテルを貼られた)側からホテル・ムンバイを描いた映画もあり得ると知りつつ観るべき映画なんだろうと思いつつ、やはりテロ(※)はいかんよと思った次第。最初の段階で全員が無事に助かるわけがないと解り、じゃ、誰が生き延び、誰が助からないか?それぞれの運命の別れ道がどこにあるのか、いつ来るのかハラハラドキドキして息が詰まる。観てる人は全員、じぶんだったら、と思いながら観る映画。※テロの定義を考え出すと長くなるので、また今度。


塩田千春展-魂がふるえる

e0348762_10012869.jpg

やっているのは知っていたけど、何かのついでがないと観ないかもと思っていた。観て良かった。大層見応えがあった。ポスターの作品は、そこにいた立ち合いの人に聞いてみたら、この会場でゼロから始め10人くらいで10日くらいかかって制作したそうだ。それ観たかったなあ。出発点があるかと思って探してみたが見つからなかった。とても真摯に表現行為に向き合っているようで、観てるこちらも少し背筋が伸びた感じ。

「バスキア展」

e0348762_08574057.jpg


グラフィティアートというのは、一度に大量に見ると飽きるという事がわかったw。決して嫌いじゃないけど、やはり野に置けグラフィティじゃないけど、通りすがりとか、ふと入った店とか、ぱらぱらめくる雑誌の中とかで観るのが良いのだなあと思った次第。

以上、全て半径100m以内(高低差はかなりあり)で観た。やはり都会は良いなあ。。と思いつつ、全て観るには結構お値段が。。。と食べなれない担々麺を啜るのであった。










# by votanoria | 2019-10-22 10:33 | 散歩 | Trackback