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桐野夏生「夜の谷を行く」文藝春秋

桐野夏生「夜の谷を行く」文藝春秋


以前月刊文藝春秋に連載されているのを見てちょっと驚いて、単行本として出版されるのを待っていたものです。その題材とは、あの連合赤軍の兵士だった(とされる)女性の長い長い<戦後史>とでも言いましょうか。もちろんフィクションです。



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「1972年連合赤軍があさま山荘で壊滅する以前、山岳ベースで起きた凄惨な総括(総括と呼んだリンチと12名の処刑)を生き延び、最後の最後に指導部(森恒夫と永田洋子)が資金調達のために山を降りた隙にベースを脱走するのだが、その異様な風体のために即座に通報逮捕され、その結果殺人幇助などの罪に問われ4年の服役刑を終えた後の40年間を、市井の片隅で限られた親族のほか誰とも交わる事なく、ただ一人ひっそりと暮らしてきた現在63歳の女性が、ある日突然届いた知らせを発端にかつての同志たちとの密やかな交流が始まり、その事が数少ない親族との改めての亀裂を誘いつつ、次第に過去に引き寄せられていき、遂にはかつての山岳ベースの跡地を訪ねる旅の中でずっと目を背けていた事実と対面する事となる。」



かなり売れている作家の一人と言ってもよろしいかと思われる桐野さんがこのような題材を選んだというのがまずは驚きでした。フィクションではありますが、設定はかなり忠実に当時の事実関係を踏まえているようです。主人公の脱走した女性が実際にいたのかどうかは分かりません。


作中数少ない親族である主人公を慕っている年若い姪が、あることをきっかけに隠していた事実を知った時、主人公と姪はお互いにまったく話が嚙み合いません。それはこの小説を読む若い読者も同様ではないでしょうか。もう45年も前の事です。今や歴史の中に位置づけられていると言ってもよい事件です。その姪が発するピュアでストレートな嫌悪と断罪を前に、かつてはピュアであったはずの理想と大義とその最悪な結末の顛末の当事者である主人公は、じゅうぶんに言葉を尽くして説明することができません。


後悔と自己弁護と責任転嫁がないまぜになった弁明は激しく拒絶されます。それを癒してくれるのがかつての同志との再会ですが、そこでも自分の記憶と相手の記憶の大きな齟齬を見出してしまいます。すなわち、自分は最下級の兵士だと思っていたのに、そのかつて一緒に脱走し、一緒に逮捕された同じ立場だと思っていた女性が、自分の事を指導部に近い立場であり、総括=リンチを初期の時点でかなり積極的に支持していたという見解を示すのです。


読者はここで、それまで主人公の一人称で述べられてきた記憶は実は都合よく作り変えられた、偽善的で自己本位なものではないか?という疑念が生まれ、この人物はいったいどういう人物なのだ?という謎にとらわれます。


ここらは良くできたミステリーを孕んだエンタテインメントとなっていて、さすが桐野夏生さんです。その後、接触してきたフリーライターの男に導かれてその謎が解かれていくことになるのですが、それは読んでのお楽しみ。


連合赤軍事件を女性の当事者という視点で描くというのは、関連書籍の中でも今まで見たことがないでのですが、フィクションとはいえ新しい見方だと思います。桐野さんは永田洋子の結審で述べられた裁判長の「不信感、猜疑心、嫉妬心、敵愾心」「女性特有の執拗さ、底意地の悪さ、冷酷な加虐趣味が原因だ」という言葉に激しく反発しています。これは確かに事件を矮小化する悪意に満ちたタチの悪い判決文だと思います。この怒りが桐野さんにこの小説を書かせたのかもしれません。桐野さんは同時に永田洋子が構想した(とされる)、女性兵士の産む子供をみんなで育てて理想の革命戦士に育てようという、女性が主導する革命コミューン的構想を、今までの連合赤軍の歴史的総括から無視されてきた、記録しておくべき歴史的事実として女性の目線から書き残しておきたいと思ったのではないでしょうか。(ここらへんの事実関係はあまり詳しくないのでそういう事実があったのかどうか確信がもてませんが、当時妊娠中で既に死を目前とした女性の腹から子供を取り出してみんなで育てよう、と言ったことは事実あったように記憶しています。なんともおぞましいことです。)


閑話休題。最近世の中では「忖度」という言葉が流行しているようですが、我々日本人に特有の「空気を読む」という事が当時の革命党派(とされている)の中でも行われ、指導者とされる者に対する無条件的な追従があの最悪の結末に繋がっていく。ユダヤ人虐殺に大きな役割を果たしたアイヒマンの裁判で哲学者ハンナ・アーレントが見出したのは、ただの職務に忠実であった、多少は出世を夢見るみすぼらしい小役人の姿であったわけですが、昨今「共謀罪」とも「テロ等準備罪」ともいわれている法律案においても、空気を読むのに長けた小役人、警察官僚が、もっとも基本的な市民的自由を制限できる法律を政権党の意向を忖度してどのように運用するのか?と考えるだけで胸がむかむかしてくるのです。「権力とは反抗する者を弾圧する力のことではなく、権力の意向に従わせることができる力だ」という言葉もありますが、それは革命党派であれ、現在の政権党であれ、企業社会であれ、権力のある処、どこにでもおこりえる関係性です。特に、空気を読むのが得意で、すぐに付和雷同し、熱狂する日本(人)においては。それに対抗するのは唯一「思考することを止めない事だ」というアーレントの言葉を噛みしめるだけです。


なんだか脱線気味の感想文になってしまいましたが、歴史も人々の記憶の中から編み出されていくとしたら、歴史というものも如何に頼りないものだろうか。そんな事も考えました。とにかくいろんな意味で考えさせられた本でした。※裁判長の言葉や、アーレントの言葉は記憶に基づいた引用です(笑)詳細は原典でお確かめください。




by votanoria | 2017-04-23 21:47 | | Trackback