高村薫「土の記」

高村薫「土の記」とマーク・ロスコ


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「土の記」に関してはいずれ詳しくレビューするかも、などというなんとも腰の引けた予告をしたのですが、その後なんとなく書きそびれていました。ここに来て腰が上がったわけでもないのですが、ユーチューブで高村薫さんのある映像を見て書いてみようと思ったわけです。粗筋とかは他でぐぐってみてください。


NHK日曜美術館 高村薫「私とマーク・ロスコ」https://www.youtube.com/watch?v=cSkTo6o9fD8


マーク・ロスコは抽象表現(主義)の画家の中でももっとも抽象度が高い作家のひとりだと思うのですが、一言でいうと「これ以上削ぎ落すものがない」というくらいに、画面には何かを指し示すような現実感のある形も線もなく、なんらかの暗示すらも許さないようにただの色の広がり、色面があるだけです。しかし、それは決して単純な色面ではなく、微妙で繊細なニュアンスをもった深さがある色面です。沼のようでもあり、柔らかな泥のようでもあり、よく耕された土壌のようでもあります。


高村さんは前作「太陽を曳く馬」でマーク・ロスコの絵画を表紙に使いました。作中にも抽象絵画が重要なアイテムとして表現されてもいるのですが、この最新作「土の記」において、より純化された形でマーク・ロスコのイメージが継承されているように思います。


2009年出版の「太陽を曳く馬」では阪神淡路大震災とオウム真理教の地下鉄サリン事件のことが基底音として響いていました。しかしその直後に東日本大震災が起きてしまいました。このことが「土の記」を書く事の強い動機となった事は、ラストの意表を突く終わり方でもわかります。たぶん書かずにはいられないと思ったのでしょう。「太陽を曳く馬」よりももっともっと切実に思ったのではないでしょうか。


恐らく高村さんは、「土の記」の主人公が学生の時に作り、その後ずっと持ち続け、ぼんやりと眺め続けている土壌モノリス(実物大の土壌サンプル)とマーク・ロスコの絵画を重ねているのではないでしょうか。それとも、農業を営む主人公が日々耕し、施肥をし、丹精をこめて育てている稲田の土のイメージなのかもしれません。

http://www.naro.affrc.go.jp/archive/niaes/inventory/soil/monolith/


主人公は老境を迎え、身体機能の衰え、記憶力や認知機能の劣化、世の中の動向への関心の低下、そんな事を感じながら日々を過ごしています。人が老いていくということは、人間もまたいろいろな世俗の垢が洗い流され、次第に一様な老爺・老婆の佇まいに近づいていくのでしょう。もしかするとそれはいろいろなものを削ぎ落して遂にはただのひと色の存在になっていくことと似ているのかもしれません。<老いる>とは、<考える>ということまで削ぎ落され、かろうじてただ<感じる>だけの日々の移ろいの中に<生きる>ということなのかもしれません。まるで全ての具体を欠いた抽象的な存在になることなのかもしれませんね。


映像の中で高村さんはロスコの絵を評して「こういう小説を書きたい」とおっしゃっています。「これは生命の手触りだ」と思った、とも言っています。人物の説明はなくとも<命の手触り>があるような小説を書きたいとも。「太陽を曳く馬」の中に印象的な言葉があります。獄中にいる殺人犯の息子に宛てた手紙の中の一節なのですが「ひとまづ土のように、石のように、草のように君はゐるのだから、怯えることはありません」とあります。


このことからも「土の記」は「太陽を曳く馬」の続編というか、合田雄一郎シリーズのスピンオフ小説と見てもよいのかもしれません。高村薫ファンとしては合田雄一郎シリーズの続編も読みたいのでスピンオフと言っておきます。


この作品に惹かれるのは、やはり自分も老境を生き始めているからで、主人公の屈託を持ちつつ次第に枯れていく様は本当にしみじみと染みてくるのです(笑)。老人小説というジャンルがあるのかどうか解りませんが、その第一人者である古井由吉さんが好きなのですが、この本の最初の印象は「おやまあ、古井由吉?」と思ったほどで、高村さんが新たにこのジャンルに参入していただけるとすると望外の喜びです。なんて言ったら怒られるかもしれませんが、この線の次回作も楽しみです。




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by votanoria | 2017-03-21 11:40 | | Trackback